「咲」と「笑」

武井咲(たけい・えみ)という女優がいる。
本記事は、その「咲」という字の話。

「咲」という字は、一般的には専ら「花が咲く」という意味でしか使われない。
実際、常用漢字表(平成22年内閣告示第2号)においても「咲」の読み方としては訓読みの「さく」が挙げられるのみであり、 用例も「咲く」「遅咲き」の2つのみである。
では、冒頭で挙げた女優の名前の読み「えみ」は字義や本来の読みとは無関係な「間違った」読み方なのだろうか?

いや、そんなことはないのである。
と言うのも、「咲」は元々「笑」と同じ文字だからである。

最大の漢和辞典として知られる『大漢和辞典』(諸橋轍次)を見ると、次のように書かれている。

【笑】25885
(一)わらふ。(ニ)花さく。〔樂府、西鳥夜飛〕持底喚歡來、花笑鶯歌詠。
(四)古、咲关に作る。 〔集韻〕笑、古作咲、或省。 〔漢書、薛宣傳、壹关相樂、注〕師古曰、壹笑、謂觀笑耳、 关、古笑字。
『大漢和辞典 巻八』(諸橋轍次, 大修館書店) p.748 (8884) より引用(抄)
咲3554[注1]
わらふ。笑 (8-25885) の古字。
[邦]さく。花の蕾が開く。
『大漢和辞典 巻二』(諸橋轍次, 大修館書店) p.991 (2073) より引用(抄)

また、近代以降の字典の基礎となった清代の字典である『康熙字典』を見ると、次のように書かれている。

古文 咲关[注1]
[廣韻]欣也。喜也。
[增韻]喜而解顔啓齒也。又嗤也。晒也。
『標註訂正 康煕字典』(講談社) p.1993 より引用(抄)
咲[注1]
[集韻]笑古作咲。 註詳竹部四畫。或省作关
『標註訂正 康煕字典』(講談社) p.438 より引用(抄)

このように、いずれの字典においても「咲」は「笑」の古字であるとされている。
また、『康熙字典』では「さく」という字義は確認できなかったが、
『大漢和辞典』では「笑」「咲」は共に「わらう」「さく」の両方の字義を持つことが確認できる(「さく」は「咲」の国訓となっている)。

元々同じ漢字の異体字の関係にあったものが宛も別々の字であるかのように分かれた例は、「咲」と「笑」の他にも

「着」と「著」、「吊」と「弔」、「娘」と「嬢」

などが存在する。
これらはいずれも中国大陸では区別されていなかったものが日本に入ってきて分化したとされている。

ある2つの文字が「同じ漢字」であるか「違う漢字」であるかが日本と中国とで異なるケースがあるというのは、興味深いものである。

^ 1. ここでは原文に従って「咲」という字形を用いているが、 これは「咲」の旧活字体(活字のデザインの違い)である。 本記事を読む上では「咲」と同一視して差し支えない。